東京地方裁判所 昭和40年(むのイ)6号 決定 1965年9月22日
申立人 青木操
決 定
(申立人氏名略)
右の者に対する公文書偽造、同行使、有価証券偽造、同行使、詐欺未遂被告事件につき、東京地方裁判所が言渡した判決による刑の執行に関し、検察官の処分を不当として異議の申立があつたので、当裁判所は次のとおり決定する。
主文
本件申立を棄却する。
理由
第一本件申立の要旨は、
「一 申立人は、本件被告事件の確定により、八王子医療刑務所に服役したところ、眼病が悪化し、在監では医療に適せずとして、昭和三五年一二月、検察官の刑の執行停止の指揮により釈放された。爾後、申立人は、自宅で、または通院、ある時は入院手術を受けるなどして療養に努めて来たが、病状は悪化する一方で、視力は左眼〇・〇一、右眼〇・〇二と減退し、ほとんど失明に等しい病状となり、昭和三九年一〇月には重度身体障害者として身体障害者手帳の交付を受けるに至つた。しかるに東京地方検察庁検察官森保は、申立人が再三病状を説明し、なお今後治療を続けたい旨要請したにかかわらず、単に執行停止期間が長いからとの理由だけで、昭和三九年一二月、前記執行停止を取消す処分を行なつた。右処分は次の理由により不当である。
(一) 申立人は、不具廃疾となつては、服役はもとより、今後一生の生計を維持するうえにも重大な不利益となるので、非常な危険を伴うとはいえ再手術を行つて、現状より少しでも視力を回復させたいと希望している。収監されればその機会を失なうこととなるばかりでなく、専門医がおらず、治療方法の万全でない刑務所においては、更に眼病を悪化せしめるおそれが大きい。申立人を収監することは、自由刑の執行を受刑者個人の社会的自由の剥奪に限るとする現行法秩序の認める基本精神に背馳するものである。
(二) 申立人の病状が完全失明にまだ至つていないとしても、すでに不具廃疾者として身体障害者手帳の交付を受けた現病状では、作業不能、かつ、他人の介輔を必要とし、行刑の目的を達することができないことは明らかである。
このような処分は、東京高等裁判所昭和三五年(く)第七〇号決定の理由に、「申立人の求めに対し、これを許すべき範囲にあるにかかわらず刑の執行停止についての指揮を拒否したというような事情があるときは、申立人は、刑事訴訟法五〇二条に謂う不当な処分として救済を求め得るものというべきである」とある「不当な処分」に該当するものである。すなわち、裁判の適正な執行確保をいう法的安定性は、不適法な処分によつては勿論、不当な処分によつても害されてはならないのである。
二 以上の理由により、前記申立人に対し刑の執行停止を取消した不当な検察官の処分の取消を求める。」
というのである。
第二よつて、審按するに、
一 (一) 本件記録によれば、申立人は、公文書偽造、同行使、有価証券偽造、同行使、詐欺未遂被告事件につき、昭和三二年一二月二七日、東京地方裁判所において、懲役二年、執行猶予四年(保護観察付)の判決(以下「本件判決」という)の言渡を受け、右判決は、昭和三三年一月一一日に確定した。その後申立人は、昭和三四年五月一日、千葉地方裁判所松戸支部において、詐欺罪により懲役一〇月の判決言渡を受け、右判決が昭和三五年五月一日に確定したため、同年八月三日、本件判決につき東京地方裁判所において執行猶予取消決定がなされ、右決定は同年九月二八日に確定した。申立人は当時、八王子医療刑務所において、前記千葉地方裁判所松戸支部言渡にかかる刑の執行を受けていたところ、検察官は同年一〇月一日、本件判決の刑の執行指揮をし、申立人は同月四日から引き続いてその刑の執行を受けるようになつた。ところが、申立人は両眼黄斑部変性、併発白内障にかかつており、しかも重症(右眼は完全失明、左眼は眼前一五センチメートルで指の数が判る程度―一五センチ指数―)であつたので、検察官は、同年一二月六日、刑の執行により著しく健康を害する場合に該るとして、申立人に対する刑の執行を停止する指揮をし、申立人は翌七日釈放された。申立人はその後、東京大学付属病院、順天堂病院などに通院し、あるいは聖路加国際病院に二度に亘つて入院するなどして治療を受けて来たところ、昭和三九年一二月一一日、東京地方検察庁検察官森保は、「(イ)、病状は固定していて悪化のおそれなく、必ずしも継続して治療する必要がない。(ロ)、現状のままで、他の疾患が起らない限り失明の危険はない。(ハ)、懲役刑の執行は過激な労務でない限り堪えうる状態にある。」との理由で、刑の執行停止事由は消滅したとして前記刑の執行停止を取消し、昭和四〇年四月一二日、東京拘置所長に宛て残刑の執行指揮を行なつた(申立人は右検察官の執行のための呼出しに応ぜず、また、その後収監まで所在不明であつた)。そして、申立人は、同年五月初め頃、八王子医療刑務所に身柄を移され医療処置を受けている。以上の各事実が明らかである。
(二) ところで、刑事訴訟法四八二条に規定する事由ある場合に、検察官が刑の執行停止の指揮をなすことは、その条文上、検察官の裁量行為であると解せられるのであるが、その規定には、刑の執行が一つの法律関係であることを前提としてその基準を定めてこれを統制し、もつて、受刑者その他の者に刑の執行以外の不利益を負わせないとする面も含まれているものと思料されるのである。そうであれば、検察官の裁量行為ではあつても、全くの自由裁量ということができず、いわゆる覊束裁量であつて、右規定に定める事由あることが明白であるにかかわらず刑の執行停止の指揮をなさない等、その趣旨を逸脱した検察官の処分に対しては、受刑者は同法五〇二条にいわゆる「不当な処分」として裁判所に異議の申立をなし当該処分の取消を求めることができると解するを相当とする。
(三) そこで本件申立につきその理由があるかどうかについて検討すると、
(1) 本件申立の第一点は、眼病の治療の機会が奪われ、かつ、一層これを悪化させるおそれがあるから刑事訴訟法四八二条一号および五号に該当するとの主張と解せられる。
(イ)1 そこで申立人の眼病の状態につき調査したところ、証人河東陽、申立人の各供述および医師大塚任作成の診断書(写)の記載を綜合すれば、申立人は前記釈放されて後、聖路加国際病院において、昭和三六年二月二八日に右眼、昭和三八年一一月八日に左眼のそれぞれ成熟白内障手術を受け、右各手術直後には手術した眼につき〇・三ないし〇・五の矯正視力を得たこと、しかしながらその視力もやがて衰え、すでに昭和三八年一一月において右眼は四〇センチ指数になつていたこと、そして、昭和三九年一二月には、両眼白内障手術後遺症、右眼黄斑部変性霰粒種と診断され、視力は右眼で八〇センチ指数、左眼で三〇センチ指数であつたこと、その症状からみて、申立人の右眼病は当時すでに固定した状態にあつたこと。がそれぞれ認められる。
2 ところで、医師倉田和美作成の診断書によれば申立人は再収監されて後、両眼虹彩炎を併発していることが認められる。しかしながら前記各証拠に証人倉田和美の供述を綜合すれば、右虹彩炎は視力に影響を与えると考えられるほどの症状ではなく、また将来も、現在、八王子医療刑務所で施している治療で充分にその悪化を喰いとめることができること。右虹彩炎を除いては、他の眼病はいずれも依然として固定した状態にあること。収監後申立人の視力がやや減退しているとは認められるが、他覚的所見では、それ以上の視力がある筈であつて、視力が出ない原因は神経症による疑いが濃いこと(器質的な障害として考えられることは、視神経の異常であるが、これは視神経乳頭を調べた結果は異常がないところから、殆んどその可能性はない)。拘禁が申立人の眼病を悪化させるとは考えられないこと。以上の事実を認めることができる。
(ロ) そうして、その手術による治療可能性については、現状のままでも前示のとおり他覚的所見では現在以上の視力が出る筈であること、および申立人はすでに前認定のとおり昭和三五年以来四年間の治療期間を与えられ、聖路加病院、東京医科歯科大学、東京大学付属病院等において、我国最高水準の諸医師の診断を得、尽すべき治療を一通り受けていることを考えれば、手術によつて現在以上の視力を得ることはきわめて困難と断ずるほかはなく、また、その治療可能性を積極的に肯認せしむべき証拠はこれを見出すことができない。
また、仮りに手術による視力回復が可能であるとしても、申立人の眼病は、いずれも即時手術を行なわなければ手遅れになるものではないことが、前記各証拠上明らかなところであり、そして裁判所としては申立人のため有利な証拠の収集に努めたのであるが他に回復すべからざる不利益を与えるとの申立人の主張を容れるに足る証拠はこれを見出すことはできない。
(ハ) そうすれば、眼病悪化のおそれも、治療の機会を奪うこととなるとの点についても、これを認めるべき資料がなく、このような事案では明白に刑事訴訟法四八二条一号、五号に該当する場合とはいえない。そうとすれば、この点に関し、検察官の処分をもつて、その裁量の範囲を逸脱したものとはにわかに断定できない。
(2)(イ) 申立人の主張の第二点は、申立人は不具廃疾となつており、他人の介輔を要し、作業不能であるから行刑の目的を達し得ぬこと明らかだとし、前同条八号に該当するとの主張と解せられる。
(ロ)1 ところで、作業が到底不能であり、また社会の応報感情もすでに殆んど無いような受刑者に対し、懲役刑を執行することは、刑本来の目的を達する見込みがないのに、受刑者に無用の苦痛を与えるものであるから、かかる場合、刑の執行を停止することは、右条項の趣旨に合致するものと解せられる(大正一三年二月一六日付行甲一八五号司法省行刑局長通牒参照)。
2 そして、当裁判所が法務省矯正局および全国各刑務所に照会した結果によれば、眼前手動以下の視力の者のうち一三名が服役中であり、治療をうけていて休養中の者を除く数名がアイスクリームのステツク製造、紙細工、あんま等の作業に従事していることが明らかである。右事実に徴すれば、一応現在我国の刑務所において軽作業が盲人のために用意され、これによつて受刑者を教育改善することが可能な状態にあるわけであるから、前記「作業不能な者」とは、右の程度の作業すらなし得ない者、例えば入所後俄盲人となり、何事につけても他人の介輔を要するような者の場合がこれに当るものと考えるのが相当である。
(ハ) そこで、申立人が右の如き「作業不能な者」に該当するかどうか検討すると、証人永井尊幸、同中村清の供述を綜合すれば、申立人は日常生活において、入浴、書字、房外の歩行等に他人の介輔を要する状態にあるけれども、他方、房内の洗顔所、便所等には一人で行つて用を足すことができ、食事も与えられれば一人で食べられる等、ある程度の行動は自分自身で為し得ることが認められ、しかも申立人が眼病をわずらつてからすでに数年を経過していることを考えれば、いわゆる俄盲人とは同列に扱うことができず、前記程度の作業をなし得ないとする理由は見出し難い。
(ニ) そうとすれば、申立人は現在治療中の虹彩炎が治癒すれば作業に就きうると断ぜざるを得ず、申立人に対し刑の執行を行なうことはその理由があるので、この点からも、本件検察官の処分をもつて、その裁量の範囲を逸脱したものと断定することは至難であろう。
二 以上の理由により、本件検察官の処分に、申立人主張の如き不当性ありと断定することができないから、本件申立はその理由がないものとしてこれを棄却することとする。(なお、申立人の本件判決の基礎となつた犯罪事実はほぼ一〇年前に行なわれた比較的軽微な事案であること、すでに別件で長期間勾留され、充分に自己の罪業につき反省悔悟の機会を与えられ、かつ、爾後は何らの事故もなく、ひたすら眼病の治療に専念してきたものであることなどを考慮すれば、申立人の心情には同情すべき点が少くない。そうとすれば、申立人が同人に対する行刑により社会生活への適応性が増加し、かつ右事情が充分斟酌された場合には、申立人には案外早期に仮出獄の機会が訪れるのではあるまいか。しかし、申立人がこの機会を獲得するには、同人自身の努力が必要であり、房内で真剣に自己の犯行につき反省を重ねつつ、人格の錬成につとめる要のあることは多言を要しまい。)
よつて、主文のとおり決定する。
(裁判官 八島三郎 新谷一信 永山忠彦)